2016年11月3日木曜日

点をつなぐ2

昨日立山が初冠雪しました。観測史上二番目に遅い記録だそうです。



前回前々回の続き、

ジョブスは、経済的な理由で大学を中退した後もしばらく大学に居残って、自分の将来や卒業単位のためでなく、単純に興味・関心のため、要は面白いと思う授業を受けていたわけですね。そしてそこで学んだこと、たとえば書体美術などが、アップルコンピューターを起業したとき、(結果的に)たいへん役に立ったというわけです。
 しかし、この後のスピーチにも出てくるように、書体をはじめとするスタイルへのこだわりが、会社の経営を圧迫して他の幹部との軋轢を生み、自分が創業した会社から追放される原因にもなるのです。そうしてアップルを一度辞めた後、教育用コンピューターのNEXTをつくったり、映画用コンピューターグラフィクスのピクサーに関わっていくことなって、新たな点をつないでいきます。

 アドラーの「嫌われる勇気」に戻ると、終盤第五章「人生とは連続する刹那である」にも点をつなぐ話が出てきます。「嫌われる勇気」は共著者の二人を思わせる「哲人」と「青年」の対話の体裁をとっているのですが、その青年は、人生を登山に例えて、登山が山頂を目指すように人生には高邁な目標が必要だと考えています。それに対して哲人はこういいます。

哲人 しかし、もしも人生が山頂にたどり着くための登山だとしたら、人生の大半は「途上」になってしまいます。つまり、山を踏破したところから「ほんとうの人生」がはじまるのであって、そこに至るまでの道のりは「仮のわたし」による「仮の人生」なのだと。
 青年 そうともいえるでしょう。いまのわたしは、まさに途上の人間です。
 哲人 では、仮にあなたが山頂にたどり着けなかったとしたら、あなたの生はどうなるのでしょう? 事故や病気などでたどり着けないこともありますし、登山そのものが失敗に終わる可能性も十分にありえます。「途上」のまま、「仮のわたし」のまま、そして「仮の人生」のまま、人生が中断されてしまうわけです。いったい、その場合の生とはなんなのでしょうか
 青年 そ、それは自業自得ですよ! わたしに能力がなかった、山を登るだけの体力がなかった、運がなかった、実力不足だった、それだけの話です! ええ、その現実を受け入れる覚悟はできています!
 哲人 アドラー心理学の立場は違います。人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえています。この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、大小さまざまなカーヴを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだと。しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。
 青年 では、人生はどんな姿だとおっしゃるのです!?
 哲人 線ととらえるのでなく、人生は点の連続なのだと考えてください。
・・・・・、線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生は連続する刹那なのです。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能です。しかし、われわれの人生は点の連続でしかありません。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです

つまり、過去によって現在が規定されることはなく、現在によって未来は規定されない、ということです。

ジョブスはその後、アップルに復帰してiPodやiPhone、音楽配信などで、コンピューターの枠を超えた成功をおさめていきます。我々からは、見事に点がつながっているように見えるのですが、彼自身話しているように、あらかじめ意図を持って点をつなぐことなど不可能だというのです。

有名な元野球選手の例を考えましょう。この人の「点」は以下のようなものです。

• 野球の名門高校に入学して甲子園で活躍する。
• 意中の人気プロ野球球団と高校のチームメイトに裏切られて、不人気リーグのローカルチームに入団する。
• 一年目に高卒選手としては大活躍して新人賞を獲得し、まわりにチヤホヤされるようになる。
• プロ10年を最初のチームで活躍してリーグを代表する人気選手となり、FA権を獲得して在京の人気球団に移籍する。
• 人気球団では活躍したシーズンはあったものの、度重なる怪我に悩まされる。
• 美人モデルと結婚して二児をもうける。
• 怪我のため思い通りのプレーを続けることが出来なくなり、首脳陣と対立してチーム内で孤立、退団を余儀なくされる。
• 別チームで二年プレーした後引退。
• 薬物に依存するようになる。
• 家族に見放されて離婚。
• 週刊誌に薬物疑惑が報道される。
• 覚醒罪取締法違反で逮捕、有罪判決をうける。

この元選手の場合も外からは見事に点がつながっているように見えますが、アドラー心理学によれば、それは「偽りの因果律」だということになります。取り返せない過去などなく、その気になる勇気さえあれば、いくらでもやり直すことが出来るということです。

この項続く


太閤山公園



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